« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月

2006年6月30日 (金)

わたしの映画好きの血は・・・

うちの母は昔映画が大好きでした。母のすぐ下の弟も同じく。ちなみに母のオールタイムベストは『シェーン』、ダーリンはモンゴメリークリフト(以下モンティ)。叔父は(母によると)『誰が為に鐘は鳴る』が好きで、バーグマンとテレサライトという女優さんに夢中だったそうです(と、年がバレる?怒られる~)。昔はリバイバルでよい映画が何度も繰り返し上映されていたそうで、傷がたくさん入った映画を名画座?で観ていたよ、と言ってました。
『シェーン』、そんなにいいの?と尋ねると、いいのよ~と母。あるシーンで、男の子が「シェーン?」と声をかけるとシェーンが「んー?」と返すそうなのですが、そのときの言い方がね~、もうね~と半ば身悶えしながら(?)答えてくれます。この『シェーン』のどこが好き?という会話は何度も繰り広げられているのですが、それ前にも聞いたよーといいながらやっぱりまた同じことを母に尋ねてしまうわたしなのでした。
もし結婚できて(今の時点ではその確率非常に少ないんだけど、ヒ~)、子供が生まれてその子が大きくなって映画好きに育ったとしたら、わたしも子供とこういう会話をしたいな、と思ったりして。その時はきっとBBMの話も必ずするだろうなあ。お母さん、この映画に夢中になっちゃったせいでパソコンはじめたのよ~とか言って(これは事実です。バリバリのパソコン初心者なのでございます、わたくし)。

この前、母お勧めのモンティ映画を借りてきてふたりで観ました。観ている最中のわたしたちの会話:

ふたり 「うわあ、出てきた~」

わたし 「モンティって頭大きくない?」
母 「ほんとやねえ、体はスリムなのにねえ」
わたし 「体細いから頭大きく見えるんかな」
母 「ああ、そうかもね」

母 「この背中がね、いいのよ」
わたし 「背中のラインが?」
母 「この猫背っぽいところがね、なんか淋しそうで」
わたし 「なるほど~」

観終わった後の会話:

母 「モンティは、声は駄目だね」
わたし 「ええ~?いい声してると思うけどなあ。しゃべり方とかすごく良くない?」
母 「そう?」
わたし 「うん」

Montgomeryclift_0628_1_1Montgomery Clift (結構かっこいい・・・)

モンティというとわたしが思い浮かべるのはあまりにも救いのなかった『陽のあたる場所』。母によるとモンティが演じるのはやはり陰のある役が多いらしく、だからたまに普通の善良な人を演っている彼を見るとほっとしたそうです。
母とモンティについて話していると、まるでわたしが“ジェイクくんのほくろがたまらん!!!”とか“トニーレオンなら脚触っても許す~”とか言っていたりするのと全然変わらなくて、ああ、昔も今も女の子(と敢えて言わせていただきます)の憧れの人(?)への気持ちというのは変わらないもんなんだなあと思ってしまいます。
叔父は叔父で若い頃にテレサライトのファンクラブに入っていたそうで、彼女あてに書いたファンレターがファンクラブの会報に載ったという経歴の持ち主(母の暴露により発覚)。女の子だけじゃなくて男の子もおんなじなんだなあ~。いや、というより、好きなものに対する情熱とかミーハー気分というのはいつの時代でも、いくつになっても誰もが持っているものなんだ、きっと!それでいいのだ!
わたしの映画好きや俳優さんへの入れ込み具合はこのふたりから受け継いだものだと思われます。うちの父は映画全然観ないもんなあ。

Jake_0514_3_3 Jake Gyllenhaal (もちろん素敵・・・)

ところで先日‘映画検定’の試験が行われたそうです。だいぶ前に本屋さんで映画検定の本を見つけてぱらぱらと立ち読みしてみたけど、ぜーんぜんチンプンカンプンだったのできれいさっぱり忘れていたわたし。母はニュースでその試験のことを知ったらしく、わたしが帰宅してご飯を食べているときに「今日映画検定の試験があったんだってよ」と教えてくれました。 「3級か4級の問題で『第三の男』のラストシーンの写真が出て、‘この映画のタイトルを答えなさい’っていうのがあったんだって」「はあ~、そうなんや~」「映画観てなくてもみんな知ってそうだもんね、あのラストは」「そうかなあ」 そこから話はあの名画のラストシーンはどんなだったっけ?という方向へ流れて、あれはこうだったね、じゃああれは?あのラストもよかったよねえ、わたし最後観ただけで泣いちゃうよ~、などという会話を延々と続けたわたしたち親子でございました。
映画の知識をたくさん持っているのはもちろんかっこいいけど、それよりもやっぱりわたしは大好きな映画についてみんなであつーく語り合うほうが性に合ってるなあ。だから試験は受けません(受けても合格できないから~という負け惜しみも20%ぐらいは入っていますが、にゃは)。

というわけで、冷静に分析するのは到底無理なのですが、これからも『男はつらいよ』の寅さんのような人情路線で?ぼちぼち映画について語っていきたいと思います。皆様よろしくお願いいたします~。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2006年6月28日 (水)

ウォンカーウァイの映画に出てくる人たち≒イニス?

この前Cut4月号を引っ張り出して読み直したのですが、その中のレヴューのイニスについて書かれたある部分でわたしのこじつけBBM探知機がびよっと作動しました。

“ここまで幸せに立ち向かってアクションを起こさない主人公は珍しい。”

いーえ、他にもいますよ、そういう人・・・それはウォンカーウァイ監督の映画に出てくる人たち(全部が当てはまるわけではありませんが)。以下ネタばれ含みます。

ウォンカーウァイの映画の登場人物たちは、時間だとか記憶だとか思い出だとかに支配されている(でもよく考えたら実際の人生だってそういうもの?)。そして彼の映画でも“I wish I knew how to quit you.”は重要なキーワード。誰もが誰かに対してそういう思いを抱えていて、望みどおり忘れることができる者、忘れようとあがき続ける者、忘れずにそのままで生きていこうとする者がいる。カセットテープに悲しい出来事を吹き込んで世界最南端の灯台がある岬から捨てようとしたり、亡くなった父親を撮ったビデオを観て微笑んだり、木に掘った穴の中に誰にも言えない秘密を封じ込めたり、自分の誕生日が賞味期限になっている缶詰を買い集めたり、小説を書くことによってもう会うこともない愛する女性との思い出をたどったりする人々。
そしてわたしにイニスを思い起こさせるのは、『欲望の翼』と『楽園の瑕』の登場人物たちです。

Thedaysofbeingwild_0507_1_1 『欲望の翼』
“脚のない鳥がいるそうだ。飛び続けて疲れたら風に乗って眠る。ただ飛び続けて、疲れたら風に乗って眠る。地に降りるのは、死ぬときだけだ。”
自分をそんな‘脚のない鳥’になぞらえる主人公のヨディ。彼は、
「1960年4月16日、3時前の1分間、君は俺といた。この1分間を忘れない」
そんな気障なせりふで口説いたスーと、あっさりと別れてしまう。
誰のことも本気で愛そうとはしないクールで自堕落な男を装っているヨディ(で、それがまた似合いすぎるレスリーチャン)。ヨディをあきらめることのできないスー、そんな彼女を見守る警官のタイド、ヨディの新しい恋人ミミ、ヨディの親友でミミを密かに想うサブ、ヨディの育ての母親レベッカ。彼らの思いが複雑に交錯する。

Ashesoftime_0507_2 『楽園の瑕』
(一般的にはあまり評価が高くないようなのですが、わたしは大好きな作品です。この時のトニーレオンが素敵で素敵で・・・)。
冒頭に出てくる仏典からの言葉。曰く:
“旗なびかず、風なし。揺らぐは人の心なり。”
この映画でもレスリー演じる欧陽峰は愛する人を捨てて、故郷を捨てて、砂漠の中で暮らしている(地理的にも、精神的にも)。‘殺しの請負’という物騒な商売を営む彼のもとにはいろいろな人がやってくる。ある人からの伝言を携えてきた昔の友人、仕事を求めてやってきた盲目の剣士、弟の仇を討って欲しいと頼む娘、妹を裏切った男を殺して欲しいという兄、故郷から出てきたばかりの裸足の男。彼らにもさまざまな思いや事情があった。

スーを捨てた(ような形で別れた)ヨディは、彼女に初めて出会った日のことをしっかりと覚えていて、ラストで「大切なことは忘れない」と言い切ります(このせりふを聞いたとき、彼を見ていてなぜか感じていたもどかしさはやっぱり正しかったんだと分かって、言葉もありませんでした)。
“俺は以前、脚のない鳥は死ぬまで飛び続け、地に降り立つときが死ぬときなんだ、と思っていた。でも鳥はどこにも行ったことがなかったから、飛ぶ前にもう死んでたんだ。一番愛した女が誰なのかわからない。彼女は元気かな?”
そして欧陽峰のほうは昔の恋人を忘れる為に‘思い出を消すことができる酒’を飲む。でも結局、一番忘れたいと願った彼女のことは忘れられませんでした。
“ある人曰く、何かを捨てなければならない時は、心に刻みつけよ、と。・・・間もなく、俺は砂漠を後にした”

ウォンカーウァイの映画ではいろいろな人たちの思いはすれ違い続け、登場人物の大半は望んだ幸せ(=愛する人と一緒に生きていく)を得られません(その中にあって、『恋する惑星』のトニー&フェイウォン編のハッピーさは異彩を放っています。大好き~)。そして、‘愛する人と一緒に生きていく’ことをわざと望まないようにしてる?と思わされてしまうのがこの『欲望の翼』や『楽園の瑕』。願いを叶える為に“涙ぐましい”努力を重ねて奔走するのが『恋する惑星』や『天使の涙』なら、こちらの2本に出てくる人々(特にヨディや欧陽峰)は“幸せに立ち向かってアクションを起こす”ことをせずに、敢えて動こうとしない。そしてBBMのイニスは、じっとうずくまったまま動けないでいる。「愛している」と言わなければならない人に、言わなければならなかった時にその言葉を言わず(言えず)、その代わりにずっとその思いを胸にしまいこむ人たち。全くイコールというわけではないのですが、何となく似ているような気がわたしにはするのです。
違う選択をすれば幸せになれたかもしれないのに、その方向には行かなかったヨディたち。別の選択肢があることに気付いていながらもそれを選ぶことはできなかったイニス。ふう。

それにしても、「もーっっっ、なんでそっちに行くの???こっちに行ったら幸せになれるのに!!!」と、登場人物たちの手を引っ張って針路変更させてしまいたくなるウォンカーウァイ映画。でもそのもどかしさや、満たされない思いを抱き続ける彼らの姿が、わたしにとってのカーウァイ映画の魅力のひとつなのかなあとも思います。うう~っとじりじりさせられながらも、そのじりじり感が癖になって何度も何度も観たくなってしまう。魔力でしょうか?
『2046』を初めて観たときは、なんだかそれまでの彼の映画を思い起こさずにはいられなくて半月くらいの間にまとめて全部観直してしまいました。おそるべしウォンカーウァイ。いつか機会があったら、また彼の映画について書きたいなあと思います。

余談ですが、もうすぐ公開される『ハチミツとクローバー』という映画。この映画(というより原作の漫画・わたしは未読ですが)の売りは“登場人物全員が片思い”なのだそうで。しかしこの漫画が描かれるずっと以前にウォンカーウァイは『欲望の翼』や『楽園の瑕』のような映画を作ってたんだぞーと小さな声で叫びたいわたしなのでした(大きく叫ぶ度胸はなーい)。

| | コメント (14) | トラックバック (5)

2006年6月22日 (木)

蜘蛛女のキス

蜘蛛女のキス Book 蜘蛛女のキス

著者:マヌエル・プイグ,マヌエル プイグ
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

今回もまたこじつけBBMです。そして暗ーい内容になります・・・。

映画「蜘蛛女のキス」は、主演のウィリアムハートに‘名だたる映画祭での主演男優賞三冠’をもたらしたそうです(カンヌ・英アカデミー・米アカデミー)。これもまた映画を先に観て、小説を買ったときに表紙の絵を見ておおーっと思いました。最近は映画のポスターなんかがそのまま小説の表紙になることが多いようですが(BBMもそうですね)、この「蜘蛛女のキス」は一味違うんですねえ、わざわざ映画の一場面を絵にしたものを表紙にしています。ウィリアムハートに敬意を表したのかなあと勝手に考えているわたしです。それほど彼が演じたモリーナは素晴らしかったので。

アルゼンチンの刑務所で、同じ監房に入れられているモリーナとバレンティン。モリーナは中年の同性愛者で、罪状は未成年者に対する猥褻行為。バレンティンは異性愛者で政治犯の若者。全く違う人生を送ってきたふたり。しかし、真っ暗で何もすることがない夜、大衆文化を愛するモリーナがバレンティンに自分の大好きな映画の話を聞かせ、バレンティンが自分の目指す世界のあるべき姿を語るうちに、ふたりは少しずつお互いを理解するようになっていく。(この小説の主な部分はほとんどが二人の会話のみで進められていきます。)

以下ネタばれです。

刑務所の所長は、政治犯たちの組織の情報を引き出すためにモリーナに仮釈放というえさをちらつかせて同室であるバレンティンを探らせていました。しかしモリーナはバレンティンを愛してしまいます。所長の策略で体を壊したバレンティンの世話を献身的に行うモリーナ。バレンティンも、何の見返りも求めずに自分に尽くしてくれるモリーナのことを信頼し、ふたりは“肉体的レベルで結ばれる”(訳者による解説より)までになる。
しかしラスト、これまた所長の策略で監視付きで釈放されたモリーナ。バレンティンの為に組織と接触を図ろうとした彼は、危険を察知した組織のメンバーによって殺されてしまいます。一方のバレンティンはモリーナが出て行った後度重なる拷問を受け瀕死の状態に。そのバレンティンが見ている夢の場面でこの物語は終わります。はー、なんつう悲しくて暗い話なんだろう。映画を観ても小説を読んでも落ち込んでしまったわたしですが、その落ち込みには更に続きがあったのでした・・・。以下は小説の訳者による解説からの抜粋です。

Kissofthespiderwoman_0622_1 “性的マイノリティーと政治的マイノリティーが互いの立場を理解し、前者は政治的に目覚め、後者は性的タブーを乗り越えたように見える。しかし、バレンティンは心の中の女性をついに消し去ることができなかったし、モリーナの死は政治的覚醒によるものではなかった。彼はたぶん映画の中のヒロインに自分を重ね合わせ、バレンティンの為に死んだのだ。結局二人は ~中略~ 内なる監獄から自由にはなれなかった。 ~中略~ この物語を、コミュニケーションが成立したと見せながら実は成り立っていなかった、つまりモノローグの物語と見るとき、その悲劇性は一段と増し、深い悲しみを誘うのだ。”

ががががーん(←ここの部分を読んだときにわたしが受けた衝撃)。

そして、以前(毎度のことながら)びあんこさんかすあまさんのところで‘イニスとジャックはは分かり合えているようで結局分かり合えていなかった’という記事を拝見したときに、わたしは真っ先にこの「蜘蛛女のキス」の解説を思い出したのでした。
イニスとジャックは同じように愛し合っていて同じように会えないことに心を痛めていたと思いたいけれど、実際はふたりが思い悩んでいたことはまるで違っていました。というよりふたりが立っている位置?スタンス?からしてもう違っています。

小さいとき、わたしは友達と砂場で砂山を作って、両側からトンネルを掘り「わー、届いたー」と言って手を握るのが大好きでした。これを例にたとえると、ふたりで山を作ってトンネルを掘ろうとしたイニスとジャックですが、実はイニスの方は山を見ているだけで何もできず、ジャックはジャックでイニスの手に届くようにと素手でいろいろな方向からがんばって掘っていたのかなあと。はーまた悲しくなってきた。

でも、モリーナとバレンティンが死んでも(あるいは死にかけても)お互いを真に理解することができなかったのに対し、イニスとジャックは最後になんとか同じ位置に立つことができました(しつこいようですが映画では、ですね)。「蜘蛛女のキス」は好きなのは好きなんだけどあまりにも救いがないので何度も観るのは辛いのですが、BBMはこういう終わり方になっていて本当に良かった、ありがたい、と思う次第です。

Kissofthespiderwoman_0622_2

モリーナのせりふや、彼がバレンティンに聞かせる映画の中に出てくる歌の文句にまたもジャックを思い出させるものがたくさんあって、はあーっとなってしまうのですが、最後に「あーもうジャックだー」とわたしが思ってしまったせりふを抜粋して終わらせていただきます。

『あたし、あなたと一緒にいたいの。今、ただひとつの願いは、あなたと一緒にいることなの』

ちょっとセンチメンタルすぎでしょうか?でも、ジャックはここまでは言わなかっただろうけど、気持ちはこんなだったんじゃないかなあ・・・。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2006年6月20日 (火)

ブロークバック マウンテン:映画も、小説も。(2)

ブロークバック・マウンテン Book ブロークバック・マウンテン

著者:E・アニー・プルー
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

小説の「ブロークバック マウンテン」を読んだのは、映画を観てからでした。
初めて映画を観たときは、次の日仕事どころじゃなくなるだろうなあという予感があったので休みの前の日を選んで観にいきました(そしてその予感は正しかった・・・)。小説を買ったのも同じ理由で休みの前の日。薄くて、開いてみたら字が大きくて、びっくりしたのを覚えています。脚色を担当されたダイアナオサナ氏の真似をして夜中に読み始め、読み終わったのはもうすぐ夜が明けるという頃。小説の冒頭、“イニス・デルマーは5時前に目を覚ます。”を読んで、あーイニスも今頃起き出すのかなあと小説BBMに浸りきったわたしは(泣きながら)思ったもんでした。

小説と映画の違いのひとつはジャックの描き方です。映画を先に観たわたしはジェイクを思い浮かべながら小説を読みましたが、先に小説を読まれた方はどう思われたのでしょうか?アニープルー氏は、インタヴューで“ジェイクジレンホールはわたしが思い描いていたジャックツイストとは異なっていたけど、彼の繊細な感性は役にとってあまりにも大切だった”と仰っていましたが、その‘繊細さ’というのがかなり重要なキーワードだと思われます。

小説の中のジャックは、一見すると‘繊細’という言葉からはわりとかけ離れた存在。映画ではジェイクくんの眼差しの数々から観客はジャックの思いを感じ取ることができますが、小説ではそれは無理。それどころか、小説でのジャックの言動はひえーっと思わされるような露骨なものが結構あります。以下その部分を抜粋してみます。

①「ああ、弾が出るぜ」
②「おまえにはたまげたぜ。あれからずっと馬の背中に乗ってたおかげだろう、こんなに良くなったのは」
③「ああ、ラリーンを選んだ理由か?もちろん金目当てさ」
④“こちらは(ジャックは)牡牛以外のものにも乗っていたので、自分で処理することなどなかった”

Brokeback_0506_3_1 他にももっとあったかもしれませんが(ラリーンと結婚したのは金目当て、というのは確か残されていたけれど)、ジャックとジェイクのイメージがちぐはぐで、そぐわないと判断されたのでしょうか、上にあげた部分は映画では削られていました(ジェイクくんといえば‘ナイーブで、悩み多き一途な青年’の印象がわたしには強いのですが、一般的にもやっぱりそうなのだと思います)。その結果、映画のジャック≠小説のジャック、‘映画のジャックは繊細だけど、小説のジャックはそうではない’という図式がわたしの中で出来上がってしまいました。

しかしです。即物的?なせりふの多かった、繊細さとは無縁だと思われていた(多分イニスもそう思っていた)ジャックが、あんなふうにシャツをひっそり隠し持っていた、その意外性こそがこの物語の鍵。それがあったからこそイニス(とわたしたち)はジャックの本当の思いの深さを知ることができました。じゃあやっぱり小説のジャックは一見繊細でない、というままでいいのかなあと思います(で、もちろん映画のジャックはあのままで)。当たり前だけど小説のジャックも底のほうでジェイクくんにちゃんとつながっているんだなあ、そして、ジェイクくんをジャックに抜擢した方の目は間違っていなかったんだなあと改めて納得しているわたしです。
プルー氏はイニスの“I swear・・・.”というせりふにこめられた気持ちをわたしたちの想像に委ねました。ジャックの20年間も勝手に想像させてもらうと、実は繊細の極致というエピソードがほかにもあったのかもしれないなあと思ったりして。うーん妄想。

この小説は二人の感情を克明に描写することをあえて避け(あまりにもメロドラマになってしまうから?)、事実を淡々と描くことに徹しているような印象があります。しかし、そっけないような文の中に時々イニスやジャックの思いがふっと挿入されたりしていて、そこでぐぐっと胸をわしづかみにされてしまうわたし。小説に書かれていて映画には出てこないせりふや描写はたくさんありますが(ちょっと残念)、最後の逢瀬の前の夜に出てきた“足りない、いつだって足りない時間”という部分は、わざわざジャックのせりふとして語られていました。わたしはこの部分大好きだったのでとても嬉しかったのですが、脚色のおふたりもそうだったのかなあと。

しかし原作をとても大事に思っていても、‘ここだけは絶対に残したい!’という箇所を削らなければならないこともあるのだと思います。そういう取捨選択はどうやって行うのでしょうか?(脚色のおふたりに是非伺ってみたいです。)びあんこさんのところで、アニープルー氏は60回も推敲を重ねてこの作品を完成させ、脚色の段階ではリテイク?が何回か繰り返されたという記事を拝見しました。脚色のおふたりをとても信頼していて、口を出すことをしなかったプルー氏は、この映画が“傑作になるのか、怪作になるのか、駄作になるのか全く見当もつかなかったし、完全に的を外したものになるか、過剰にセンチメンタルに描いたものになるのかもわからなかった”そうです。そして出来上がった映画がオスカーの作品賞を逃したことについて、抗議していた彼女。映画化にはほとんど関わっていなかった原作者にここまでさせる作品というのはなかなかないと思います。映画のBBMというのはそんな作品なんですね。はー、やっぱりすごい。
まだ書きたいことがあったような気がしますが、長くなってしまったのでこの辺で。

Cut (カット) 04月号 [雑誌] Book Cut (カット) 04月号 [雑誌]

販売元:ロッキング・オン
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2006年6月16日 (金)

ブロークバック マウンテン:「Opening」という曲

オリジナル・サウンドトラック~ブロークバック・マウンテン Music オリジナル・サウンドトラック~ブロークバック・マウンテン

アーティスト:サントラ,ウィリー・ネルソン,エミルー・ハリス,テディ・トンプソン,ルーファス・ウェインライト
販売元:ユニバーサルクラシック
発売日:2006/02/15
Amazon.co.jpで詳細を確認する

‘opening’と‘open’という単語を今さら辞書で調べてみました。名詞の‘opening’ではもちろん「始まり」「出だし」という意味で、動詞の‘open’になると「開く」(当たり前だけど)。そして“open+名+to+名”では(新思想などに)心・目を開く、という意味になるそうです。例えば“Those shirts opend his eyes to Jack’s true heart.”というような使い方でしょうか(文法あってるのかしら)?というわけで「Opening」という曲について。

最後にBBMを観てからもう1ヶ月以上経つので自信はありませんが、「Opening」は冒頭シーン以外でも確か2、3回ほど、それも‘イニスとジャックの関係の転換点’で流れていたような気が。あてにならない記憶なのであれですが・・・。たぶん、

①イニス、山で‘1年ぶりくらいに’たくさんしゃべる。ジャック嬉しくなっちゃっておどけてひっくり返る。(ここは流れていたか自信なし)
②2日目の夜(ここも自信なし・・・)
③4年後、ジャックから葉書が来る。イニス返事だす。再会する。(ここは自信あり)

というようなシーンではなかったかと。もし間違っていたらすみません。
‘opening’、‘open’にこじつけてみると、‘転換点’というのはジャックにとっては‘ふたりの関係が前進した’(=新しく始まった)と思えたポイント。そしてイニスにとっては(わたしの中のイニス像からすると)‘開眼’ポイント。それなのに最大の‘転換点’である、イニスがシャツを見つけるシーンでは「Opening」は流れませんでした。この曲はこの場面には合っていないし、曲が目立ちすぎると観客がヒースの表情や仕草を見逃してしまうかもしれないということが最大の理由だと思われますが(実際に流れたのはすごく控えめな曲でしかも音量もかなり小さくしてありました)、もうひとつわたしが勝手に考えた理由は、“ジャックがいないから?”
「Opening」は、あくまで‘ふたりにとっての’転換点で流れるべき。だからいくらイニスの目がしっかりと開かれてもそこにジャックがいないのであれば意味がない。なんだか書いてて落ち込んできましたが。

上記の③の場面を最後に、「Opening」は流れませんでした。結局、ふたりの関係はあの再会の時から15年経っても前進することはなく(何も終わってはいないし、何も始まっていないし、何も解決していない)、イニスの目が開くことはなかったということなのでしょうか(でも考えてみると実際そうだった)。はー、なんかいつにもまして中身がない文章になってしまいましたが、落ち込んだまま今日はこの辺で。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年6月14日 (水)

嫌われ松子の一生

うう~ん、またものすごい映画を観てしまいました。皆さんもご存知だと思いますが、「嫌われ松子の一生」でございます。例によって小説を読まずに映画を観たのですが、小説での‘松子の一生’はどういう描かれ方をしているのでしょうか?気になるけど、読むのがちょっと怖い気もします・・・。

嫌われ松子の一生 (上) Book 嫌われ松子の一生 (上)

著者:山田 宗樹
販売元:幻冬舎
Amazon.co.jpで詳細を確認する

東京荒川の河川敷で死体となって発見された、川尻松子(53)。その甥の笙は、九州で暮らしている父親(松子の弟)のかわりに、存在さえ知らなかった叔母・松子の暮らしていたアパートの整理をすることになる。うまくいかないことばかりで自暴自棄に生きていた笙だが、いろいろな人から生前の松子にまつわる話を聞くうちに、その人生に興味を覚えるようになる・・・。

以下ネタばれです。

予告などを見てわたしが勝手に想像していた松子という人は、‘どんなに不幸に見舞われてもそれをものともせず、ターミネーターのごとく起き上がり幸せに向かって邁進するとことん楽天的な女性’ だったのですが、それはちょっと違っていました。確かに松子のまわりにはいつも花や蝶や鳥が舞い踊っているし彼女自身も常に歌っているけれど、決して楽天的なわけではないし、ちゃんと(という言い方はおかしいけれど)ダメージも受けている。「なんで?」と呟き「なんでーっっっ!」と絶叫しながらもそのダメージを乗り越えて次の幸せを見つける松子ですが、‘ゼロからのスタート’ではなくいつも‘マイナスからのスタート’で、しかも誰かに裏切られるたびにそのマイナス度は大きくなっていくので、観ているほうもかなりのエネルギーを必要とされます。

Matsuko_0614_1_2 松子の人格や人生に大きな影響を与えたのは父親の存在でした(イのつく人やジャのつく人を思い出しますねえ・・・)。病弱の妹ばかりを可愛がる父親に愛されたくて、‘こうしたらきっとお父さんは気に入ってくれる’という判断基準のもとに生きていた松子でしたが、ある時、自分が妹より愛されることは絶対にないのだと思い知らされます。同じ頃、ちょっとした誤解から大きな問題を引き起こして勤めていた高校をくびになってしまった彼女は、勢い余って家を飛び出しました。いろいろな男に出会っては裏切られる<総天然色の不幸の見本市>な人生の始まりです。
子供の頃に‘おとぎばなしに出てくるお姫様のような人生’に憧れた松子なのに、恋に落ちる男が揃いも揃って‘白馬に乗った王子様’からは外見的にも内面的にも程遠いというのはなんとも皮肉で現実的。実際の生活の中でそんな王子様(あるいはお姫様)のような人なんてそうそういるわけないもん。いや、というより、よく‘好きになった人が理想のタイプ’なんて言いますが、松子の場合は‘好きになった人が白馬に乗った王子様’だったのかもしれません(えらく許容範囲が広い松子ですが、監督によると‘誰でも良かったわけではない’とのこと。うーむ、人の心の摩訶不思議さよ)。
そしてそれ以上に皮肉だったのは、<自分を愛してくれていなかったはずの父親>も、<衝動的に首を絞めかける程の憎しみを覚えてしまった、父親の愛を独り占めしていた妹>も、死ぬ間際まで松子のことを案じて気にかけていたのに松子はそれに気付けなかったということ。また、松子を本当に愛した男たちも確かにいたのに、愛情の表現方法を間違っていたり、気付くのが遅かったりで松子を幸せにすることができなかったということ(うーん、またもちょっとイニス?)。松子のためを考えて彼女を捨てたやくざの龍は、松子の自分への愛情が、まるで神様が不完全で欠点だらけの人間を丸ごと愛してくれるようなものだったことを悟り、刑務所の中で号泣します(で、わたしも号泣)。

‘この人となら地獄に行っても幸せ’とまで思っていた男(やくざの龍)にも裏切られてしまった松子。彼女が晩年暮らしたアパートの近くには、故郷にあるのと似たような川が流れていました。泣きながらその川を眺め、もう誰も信じない、もうどうでもいい、と引きこもりのような生活をおくっていた松子ですが、あることをきっかけに‘あたしまだやれる!’という希望を持ちはじめます。ところがまた人生をやりなおそうとしたその時に、なんとも理不尽な理由で松子は殺されてしまいました。笙は思います、‘叔母さん、あなたの人生って・・・’。しかし最後には、笙も、松子自身も、彼女の人生はただ悲惨なだけのものではなかったということに気付くのです。観客もそれを教えられます。

良い映画というのは、ラストが本当に印象的(少なくともわたしが好きな映画にはほとんどその法則があてはまる)。
この映画のラストでは、まるで松子の魂が生まれ変わったかのような風が川面を吹き抜けていき、観客はその風と共に彼女の人生を振り返ることができます(監督の意図したところは違うのかもしれませんが、わたしにはそう感じられました)。詳しく書きたい気持ちはあるのですが、もったいないので(?)やめておきます。どんなに素敵なラストなのか、これはちゃんと自分の目で見てもらったほうがいいので。ただ、階段を幸せそうに歌を歌いながらのぼっていく松子がとっても綺麗だったこと、「お姉ちゃん、お帰り」「ただいま」という会話とその後の松子の笑顔に、彼女が本当に望んでいたささやかな幸せを教えられて、またも涙と鼻水で呼吸困難に陥ってしまったということは強調しておかなければなりませぬ。
「下妻物語」も大好きだったけど、「松子」はそれ以上でした。スタッフやキャストの方々にお礼を言いたくなる映画が、またひとつ増えてしまいました。嬉しい限りです。

Matsuko_0612_1_1 「嫌われ松子の一生」
(2006 日本)

‘不幸って何?’

人の幸せや不幸というのははたから見るだけでは判断できないんだなあ・・・。

| | コメント (9) | トラックバック (10)

2006年6月10日 (土)

カイロの紫のバラ

Purplerose_0610_2_1 今回のこじつけBBMは「カイロの紫のバラ」。ご覧になれば分かるとおり、ブログのタイトルはこの映画から拝借しました。どこがBBMを思い出させるかというと、ラストの余韻、かな?(ほんとにこじつけ・・・。そんなことを言ってたらほとんどの映画がBBMを思い出させることになっちゃいますね。でも最近のわたしはそういう状態なんです~。)しかし再見してみたら、意外にもBBMに共通する部分をいくつか見つけることができました。まあこれもこじつけと言われればそれまでなのですが、ひー。

第2次大戦中のアメリカ、ニュージャージー。不景気の真っ只中、働かずにぐうたらしている夫の代わりにダイナーでウェイトレスをして家計を支えているヒロインのシシリアですが、失敗ばかりで店のオーナーからはにらまれています。日々の暮らしに追われ楽しいことなんて全然ないけれど、町にたった一つしかない映画館で大好きな映画を観ているときだけは幸せな気分に浸ることができました。そんな彼女の最近のお気に入りは『カイロの紫のバラ』という映画。中でも探検家トムバクスターという登場人物はシシリアの心をとらえて離しません。
ある日、夫のいい加減さにいつものように傷つけられ、挙句の果てに度重なる失敗のせいでとうとう店をくびになってしまったシシリア。ふらふらと映画館に向かい『カイロの紫のバラ』を繰り返し観て、とうとう5回目になったときそれは起こりました。なんとスクリーンの中からトムバクスターが彼女に話しかけてきたのです。「君は本当にこの映画が好きなんだね。…もう5回も観てる」 シシリアに恋をしたトムは、彼女と一緒にいたいとスクリーンの中から抜け出してしまいます。困ったほかの登場人物たち、映画館の館主、映画の製作者たち。話が進まなくなって混乱状態になった映画を観に来る観客。そしてトムを演じた役者のギルシェファードが、取り返しのつかないことをする前にトムをスクリーンの中に戻すべくハリウッドからやってくるのですが・・・。

Purplerose_0610_4 以下ネタばれです。

この映画の登場人物の中に、わたしはアルマやイニスやジャックを見るような思いがしました(ラリーンは見つけられなかったけど、もっとよく見たらいるのかも)。
シシリアの夫はちょっとだけイニス。ロマンティストで、‘愛があれば’ とシシリアに情熱的に求愛するトムは、ジャック。トムと同じくシシリアに恋をしたのに、その思いを封じ込めてシシリアを騙すような形でハリウッドに戻るしかなかったギルは、イニス。そしてシシリアはアルマであり、ジャックであり、イニスでした。
真紅さんのところで “わたしの中にもイニスはいる”という記事を、そしてびあんこさんのところで “現実だけで生きていくのは虚しい。夢見るだけでは生きていけない” という記事を読んだ後、更にこの「カイロの~」を観て思いました。シシリアがそうだったように、わたしを含めて誰の中にもアルマやイニスやジャック(そして多分ラリーンも)がいるのだろう、と。

夫に愛されていないという思いをずっと抱えて生きてきたシシリア。トムはそんなシシリアに恋をして、映画の登場人物そのままに彼女にその気持ちを伝え続けます。シシリアは夢心地。 “わたしを愛して大切にしてくれる人がいた!そしてその人は嘘みたいに魅力的!” さらにトム役を演じたギルも、自分の映画を熱心に観て正しく評価してくれるシシリアを初めての理解者のように感じ、恋をし、シシリアにプロポーズする。シシリアはさらに舞い上がってしまいます。トムか、ギルか。選択を迫られたシシリアは、理想的な(架空の人物である)トムではなく、現実に存在しているギルを選ぶ。しかし、選び取ったはずの ‘現実’ も、実は夢にしか過ぎませんでした。シシリアをあきらめたトムがスクリーンの中に戻ったのを見届けると、ギルは何も言わずにひとりでハリウッドに戻ってしまいます。

Purplerose_0610_3_1

幸せになるために、きっと少しばかりの打算ともに‘夢’ではなく‘現実’を選んだシシリアは、打ちのめされる。そして、ギルも帰りの飛行機の中でシシリアに対する仕打ちをもう後悔している(この辺はパンフレットやキネ旬の特集でも書かれていた「いつか晴れた日に」のウイロビーのエピソードを彷彿とさせます。ギルのシシリアへの思いは絶対に嘘ではなかったはずです)。シシリアの選択も、ギルの行動も、分かるんだけどなんとかならなかったのかな・・・。あまりにも救いがなさ過ぎるな・・・。BBMの小説のラスト、 “自分が知ったことと、信じようとしたことのあいだには、いささか隙間が空いていた。だが、それはどうすることもできない。そして、自分で解決できないなら、それは我慢するしかないのだ。” という文が頭に浮かびます。しかし。

あまりのショックに打ちひしがれたシシリアは、また無意識のうちに映画館の座席に座っていました。今度の上映作品は、フレッドアステアとジンジャーロジャースの「トップハット」(これは実際にある映画。わたしも「カイロの~」の影響でビデオを借りて観ました)。それを観ながら、少しずつ少しずつ微笑みを取り戻していくシシリアのアップでこの映画は終わります。自分で解決できない、どうしようもない現実の中でも、イニスの人生やシシリアの人生はこれからも続いていく。たくさんの後悔と、孤独と、きっと少しの甘さを秘めて。ここのところが、BBMを思い出させる所以なのでした(そんでまた性懲りもなく泣いてしまうわたしであった)。

うーん、また大したことが書けませんでしたが、長くなったついでにおまけでもうひとつ。

「トップハット」の劇中歌(?)で、「カイロの~」でもとても印象的な「Cheek To Cheek」という曲。この映画を観て初めて知って、大好きになりました。今回歌詞をまた見直してみると、 “まどろみの抱擁=ダンス” の影響で、この「Cheek To Cheek」もジャックの歌のように思えてきました。以下は自分で訳してみました歌詞です。

天国、僕は天国にいる
心臓の鼓動は高鳴ってしゃべることもできない
君と頬を寄せて踊るとき
僕は捜し求めていた幸せを見つけたような気持ち

天国、僕は天国にいる
ここのところ僕を悩ませていた心配ごとも
ギャンブラーのツキみたいに消えていくよ
君と頬を寄せて踊るとき

山に登って頂上にたどり着くのもいいけど
君と頬を寄せて踊るときのようにはぞくぞくしないし
川で釣りをするのも好きだけど
君と頬を寄せて踊るときみたいには楽しくないんだ

ああ 僕と踊っておくれ
君に腕をまわして踊りたいんだ
君の魅力が僕にそうさせるんだよ

天国、僕は天国にいる
心臓の鼓動は高鳴ってしゃべることもできない
君と頬を寄せて踊るとき
僕は捜し求めていた幸せを見つけたような気持ち

| | コメント (12) | トラックバック (5)

2006年6月 7日 (水)

スモーク

SMOKE DVD SMOKE

販売元:ポニーキャニオン
発売日:2002/03/20
Amazon.co.jpで詳細を確認する

‘1990年、ブルックリン。時間を撮る煙草屋の店主、書けなくなった作家、たくさんの名前を持つ少年・・・・・・いくつもの人生が交錯し、何かが起ころうとしていた。’ 群像劇好きのわたしは、このコピーを見てぬお~っとなったもんでした。
「スモーク」はBBMと同じく、アジア出身の監督によるアメリカを舞台にした名作です。というわけで今回もこじつけBBM。台詞のひとつひとつに、そして台詞と台詞の‘間’にも意味があるような、淡々と、しかししっかりと語られる物語。ちなみにこの映画の中でも、登場人物の一人が思いがけないところで最愛の人に再会するシーンがあります(あえて詳しくは書きませんけども)。

「スモーク」というくらいだからいーっぱい煙草(と煙草の煙)がでてきます(BBMでもふたりはいっつも煙草を吸っていたなあ)。でもこの‘スモーク’というのは、“あやふやで掴めないけれど確かにそこに存在する、とても大切なもの” の象徴。この映画に出てくる人々はその‘大切なもの’に気がつくことができました(イニスは気付いたけどもう遅かった。うう~)。そしてBBMでは登場人物たちの思いは必ずしも相手に伝わらない・つながりができているようで実はつながっていなかった・本当につながろうとした時には相手はもういなかった、のが辛かったのですが、「スモーク」ではみんなしっかり、あるいはゆるりとつながれています。観ていてそこのところにとてもほっとさせられたのでした。

以下ネタばれです。

‘書けなくなった作家’ポールは、‘時間を撮る煙草屋’オーギーのおかげで創作意欲を取り戻す。オーギーはポールのところに居候している‘いくつもの名前を持つ少年’ラシードによって(危ない橋を渡るような)商売を邪魔されるが、かえってそのおかげで昔の恋人とその娘(もしかすると自分の娘かもしれない)を助けることができた。ラシードはポールとオーギーのおせっかい?によって、実の息子だと名乗れないままで雇ってもらっていた父親に真実を告げる。ポールたち、ラシードの父親のサイラス、オーギーの昔の恋人ルビー、それぞれがみんなひとりで背負おうとしていたいろいろな重荷は、誰かのおかげでふわっと煙のように軽くなっていく。

Smoke_0606_1 物語の途中にいくつか挿入される小噺のようなものも素敵です。冒頭の‘煙の重さを量る’というエピソード。それを語るウィリアムハートの台詞の間の絶妙さとも相まって、最初から話に引き込まれてしまいました。そしてなんといってもやはり最後の‘オーギーレンのクリスマスストーリー’。ハーヴェイカイテルの長い、ほんとに長い語りのおかげでその場面が目に浮かぶよう。(もしイニスやジャックのそばにオーギーのような人がいて、「大丈夫だよ、小僧」なんて言いながら肩を叩きでもしてくれたなら、彼らも少し楽になれたのではないかあと妄想してしまうわたしです・・・。)最後、エンドクレジットは、なんだか小さいけれどしっかり灯ったマッチのあかりがまわりを照らしているような、‘珠玉の’という言葉がぴったりの名場面だと思います。
ポールはオーギーの話をうまい嘘だと言う。本当でも、嘘でも、まあどっちでもいいのですが。でもこの話を聞いてポールも観客も心を動かされたことは確か。そういう意味で考えると、やはり本当に起こったことなのではないかと思えてならないわたしです。

俳優陣がこれまた豪華なこの映画。ハーヴェイカイテルの額に刻まれた皺、ウィリアムハートのとても優しい微笑みを観るだけでも価値ありです(ちょっと大げさすぎるかな?)。BBMのあれこれでちょっと疲れた方、ご覧になってみてください。

| | コメント (10) | トラックバック (4)

2006年6月 5日 (月)

ブロークバック マウンテン:イニス

Brokeback_0509_6_3 今回は、‘好きなんだけどどうしても批判的に見てしまう’ イニスについて。好きなんです、嫌いな人に幸せになってほしいとは思いませんから。しかしジャックのことを考えるとどうしてもうう~っとなってしまう(イニスのことを書こうと思っていた矢先にびあんこさんのところでいろいろな方のコメントを拝見して、ますますそのうう~っという思いが強くなってしまいました・・・)。でもやはり彼のがんじがらめさ加減も分かるような気もするし、イニスのことを思うとなんとも複雑な気分になってしまいます。今日は、(一応)仕事しながら心はずっとブロークバック山にいました。イニスのことを考え続けて、なんだかとてもしんどい一日でした。

しょっぱなからネタばれ&ちょっと脱線。

わたしが観た6回のうち、たしか2回ぐらいは笑い声が聞こえてきた例のアルマ目撃!シーン。みなさんの意見や感想を求めて手当たり次第にブログを渡り歩いていたとき、‘浮気するならもっとうまくやれ’ ‘バレないようにしろ’ というような文章を何度か見ました。でもわたしは、仕方ないやん、だって4年ぶりなんだよ???と思ってた。すると、映画を観た後で読んだ原作でもイニスは同じ言い訳をアルマにしていました。しかしちょっとシチュエイションが違っています。小説ではアルマに見られていたことをイニスは知っていて、なんとか誤魔化そうと(?)‘だって4年ぶりに会ったんだぜ’という理由にもならない理由を作った。小説はこう続きます。“「そりゃそうよね」アルマは呟くように言った。今目にしたことは、全て事実なのだ。稲妻が一閃し、彼女が背にしている部屋の窓を煌々と照らし出した。” ・・・稲妻・・・ この前まで気がつきませんでした・・・。アルマ、稲妻を背に(?)目が光っていそうで怖いです。以前‘ジャックが震えているのはなぜ?’ という話題がびあんこさんかすあまさんのところででていた記憶があるのですが、もしかするとアルマの殺気を感じて震えていたんだったりして、しえーっっっ。ぜひともこの場面をkabioさんにイラストにしていただきたいです~。(付け加えると小説ではイニスとジャックがモーテルにしけこんでいる!時にも、部屋の窓には雹が打ちつけ、雷鳴が鳴り響いていた。ふたりの今後を暗示しているかのように。)
さて。‘もっとうまくやれ’なんてことは、‘何をするにも全力でぶつかる男’、イニスには到底無理な話。あの時もきっと抱き合うだけじゃ足りない、‘生ぬるい’ と思ったのでは。それか、考える前に先に体が動いてしまったのかもしれません。
Brokeback_0506_2
ジャックは情熱的ではあるけれど、衝動的ではない。イニス(やラリーン、ランドール)の出方をうかがって、相手の強引さにかえってびっくりするような、実は慎重派。一方のイニスは突発的情熱家(そんな言葉ないだろうけど)・むちゃくちゃ衝動的。ジャックに対するアレやコレに加えて、時折見せる暴力的な部分など、大の男でもかなりびびらされていました。

イニスのことを考えるとき、やはり父親の存在を欠かすことはできません。先に上げたようなイニスの性質はきっとあのばかたれ親父から受け継いだものなのだと思います。ゲイの隣人をなぶり殺し、死んでもなお遺伝子や血によって、その偏った価値観で息子を縛り付けるどうしようもない男。‘寛容’を人生のテーマに据えた(?)わたしですが、この親父の行為だけは許せません。こんな奴に寛容になんかなりたくない!絶対なってやるもんかい!でも父親もその父親も、みんなきっと同じように偏っていて、でも当時は ‘偏っている’ という意識もなかったのでしょうが。このイニスと父親の関係を見るにつけ、子供を生んで育てるって当たり前だけど大変な責任を伴うものなのだなあと改めて思います。空恐ろしいです。あいにくわたしには結婚・出産の予定はまったくありませんのでそんな心配するだけ無駄なのですが。あ、また話がそれた。

しかし ‘何をするにも全力でぶつかる男’だったイニスはあの再会を境に少しずつ変わっていきました。‘全力で’で向かってきてくれるジャックに言い訳をし、アルマや娘やケイシーに言い訳をし、挙句の果てには自分にまで。BBSでも書かれていましたが、‘俺は旅なんかしたことない’ だの ‘俺は面白くない男なんだ’ だのという台詞はまったく言い訳になっとらん。‘こんな男になった’のもジャックのせいだけじゃない。それはイニス自身よく分かっていただろうけど。

イニスは早くに両親に死なれ、生きていくのが精一杯という生活の中で孤独に暮らしてきました。山での最初の頃、ジャックに比べてわがままが少ないのも、そもそもわがまま以前に口数自体が少ないのも、感情をあまり表さないのもそこのところが原因。しかしジャックに出会って、‘一年ぶりに’たくさん話して、“人生でこんな楽しい時間を過ごしたことはない。この馬で飛び跳ねて月の白い部分をもぎ取ってこられるぐらいだ”と感じたイニス。
この時、イニスの視界は初めてクリアになったというか、今まで帽子のつば越しに見ていたのがそのつばが取っ払われたというか、もっと言うならひなが卵の殻を破ってでてきたようなものだったのではないかとわたしには思えます。そんなふうに感じさせてくれたジャックは、イニスにとって(自覚はないままに)とても大切な存在になりました。
しかしこのクリアな視界というのは、ふたりのほかには誰もいない、現実世界から離れた美しい山の中限定のもの。だから本当に‘見えていた’のではなく、山を降りた後はまた元に戻ってしまった。

Brokeback_0413_34年後の再会のとき、イニスの視界はまた猛烈に開けます。その激しさは、イニスに父親の呪縛を思い出させるのには充分すぎるものでした。ここでイニスはまた半目(もしくは曇った目)で物を見るようになってしまったのではないか、と。都合の悪い部分は見ないようにして、でもジャックに対する愛情も罪悪感もやっぱりあっただろうから、自分の中の矛盾はどんどん大きくなっていく。その矛盾によってイニスはがんじがらめになってしまいました。最後の逢瀬のときはもう精神的には何も見えていなかったのではないかなあと、わたしは思います。
そしてジャックが死んで、イニスはあの2枚のシャツを見つけました。ここで彼の目は、完全に開いた。今度は開いたまま、閉じてしまうことはなかった。何もかもが鮮明になって、イニスは矛盾から解放されました(映画のほうでは。小説ではやっぱり最後まで矛盾してる)。その力がシャツ(=ジャックの思い)にはあった。(このシャツのことはまた後日書きたいなあと思っているのですが、いつになることか。)

イニスの父親とジャックは、イニスをそれぞれ正反対の方向に導こうとしました。イニスの腕を両側から引っ張っている感じでしょうか。でも父親のほうは息子の目を曇らせることしかできず、結果、不幸にさせてしまった。ジャックとは全く反対のことしかできませんでした。しかしイニスの視界を開かせてくれたジャックはいない。それはイニスの自業自得ではあるかもしれないけど、でも、これ以上の罰(という言葉を使うのはちょっと抵抗があるのですが)はないと思うのです。そして彼はその罰をずっと引き受けていく覚悟を決めている。今さらあえて書くことではないとも思いますが、だからわたしはやっぱりイニスを責めたくはないなあと思ってしまうのです。長々~と書いてきて結論がこれっていうのは冴えないんだけど・・・。

最後に、びあんこさんのところで「The Maker Makes」がジャックの歌だというコメントを拝見して、ふむふむと思いました。だからエンドクレジットで2曲流れるんだということになるほど~と思ったのですが、わたしは歌詞の意味を知ったときにこれはイニスだなあと感じたのです・・・。鎖で縛られてるのも、(自分を偽って)つくり笑顔をしてるのも、自分が幸せな人間じゃない(と後悔している)と思ってるのも、イニスだと・・・。しかし本当になぜこちらの歌詞も映画で字幕にしてくれなかったんでしょうか。「He Was A Friend Of Mine」と同じぐらい大切な意味を持つ歌なのに・・・。

あと、「目が見えるようになった」という発想はどこから?と自分で考えていて、ああ、「Amazing Grace」だ・・・と思い出しました(「The Maker Makes」も賛美歌のような雰囲気があるし、やはりこの物語にはキリスト教の影があるんですね)。歌詞が載っているところのリンクを貼り付けておきます、ぜひご覧ください。ジャック=主・イエス説がいよいよ濃厚です。わたしは泣きました。

http://www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/amazing.htm

| | コメント (17) | トラックバック (1)

2006年6月 1日 (木)

グッドガール

グッド・ガール DVD グッド・ガール

販売元:パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
発売日:2005/10/21
Amazon.co.jpで詳細を確認する

昨日ついに借りられた「グッドガール」。レンタルビデオ屋さんで見つけたとき心の中で思わず「グーーーーーーッドガーーーーーール!!!」と叫び、帰りの電車の中ではにやにやしそうになりながら(実際にやにやしてたかも) “ジェイクくん ああジェイクくん ジェイクくん ”という俳句を詠む(?)始末。
さて、その感想はというと・・・。

以下ネタばれです。

やはりところどころにBBMを彷彿とさせる部分があって、‘おっ’ と思ったりにやりとさせられたり。テキサス!ロデオ!そして ‘共に祈る夫婦は長続きする’という台詞に、アルマがイニスに教会に行こうと誘うシーンを思い出しました。そしてみなさんが書かれていらっしゃるようにジェイクくんは今回もとても素敵♪で、ジャスティンとホールデンが惹かれあっていく過程には本当ににどきどき。ふたりが初めてキスするシーンではジェニファーアニストン本気でうらやましい、うお~っ代わって~と、地団駄を踏む(?)思いでございました。この映画、とっても好きだー。しかし。

日常的にどんよりと淀んだ空気と、閉塞感(テキサスって西部だからもっと乾燥している印象があったのですが思い込みだったのかな?いや、この場合気候なんて関係ないのでしょうが)。登場人物もみんなバリバリと仕事して趣味もあって人生を楽しんでるという感じからは程遠い。なんとなーく日々を生きて、仕方がないから(他にすることもないから)いやいや仕事して、物を食べてハッパ吸って寝る・・・。ハッパは吸わないにしても、これは自分にも覚えのある感覚です(そしてそう感じたことがある人は絶対少なくないと思う)。その(リアルすぎる)日々の繰り返しにうんざりした主人公のジャスティンがとった行動や選択・自分を守るために下したこれまたリアルすぎる決断・それが引き起こした結果に、わたしは ‘はあ~・・・・・・’ となってしまったのでした。
自分だったらどうするよ?と身につまされすぎて、ジャスティンが自己中な女だというのはわかるんだけどとても責めたり笑い飛ばしたりする気持ちにはなれなかった。確かにコメディなんだけど。笑ったんだけど。居心地の悪い笑いというか、あんまり見たくない物を見せられて思わず苦笑いしてしまうという感じでした。

ベッドに入っても夫にはいつも背を向けて、窓の外を吹く風(!!風ですよ、真紅さん!)を見るともなしに見ていたジャスティン。ホールデンに出会って、いつもと同じように風を見ている視線に、きらめきが戻ってくる。“暗闇で暮らしてると 一筋の光が眩しく思える” その見つけた光もやがて重荷になっていく。 夫との人生を選んだ彼女の選択によって自殺に追い込まれるホールデン。そして、実はジャスティンと同じようなことを思いながら暮らしていた、‘頭では何も考えないブタ’ だと彼女に思われていた夫。ジャスティンが浮気を重ねたのは精神的に満たされたいと思っていたからなのに(音声解説より)――― これもまた、“ままならない(しかも皮肉な)人生” を描いた物語なんだなあと、観た後ちょっと落ち込んでしまいました。えらそうに聞こえるかもしれませんが、この脚本とてもよくできてますよね?
最後に、またベッドの上で風を見ているジャスティン。赤ちゃんを抱いた夫が隣に来て、彼女の視線は ‘風’ から ‘自分の選んだ人生’ に戻ります。しかしそのシーンにかぶさるモノローグは、ホールデンがジャスティンを主人公にして書いた物語のラスト “ふたりは荒野を目指して旅立ち、消息を絶った” ・・・。彼女は本当に賢い選択をした「グッドガール」なのかなあ、はあ・・・。「テルマ&ルイーズ」のようにジャスティンとホールデンが逃げていたらどうなったかなあと、考えてしまったのでした。

Goodgirl_0601 それにしてもジェイクくんのキュートなこと!最初は胡散臭そうに見ていたブラックベリーを、「甘いよ♪」と言ってむしゃむしゃ食べるシーンでは完璧にノックアウト!でもキュートだけでなく不気味さをかもし出す瞳の表情は、本当にすごいのひとことです。次にどんな反応を見せるのか、あどけないようなやばいようなそんなホールデンだから、ジャスティンもあんなに深みにはまってしまったんでしょうか。そういうサイコっぽいところとNG集で素に戻ったときとのギャップがすごすぎて、またそこでクラクラしてしまいました。あーなんでこんなに可愛いの???
そして、削除シーンの「笑い事じゃなく愛してる」と言う台詞に身悶えした方いらっしゃいませんかね?わたしはしましたよ~。ほかにもそういう年上の女殺しな台詞がいくつかあって、やられました・・・。音声解説で監督が ‘ホールデンはジャスティンのために(たしかこうだった、もしかしたら違うかも)全てを犠牲にしてしまうんだ’ と言っていましたが、ジェイクくんは本当に一途というか健気というかそういう役が似合うんだー。わたしが観たのはほとんどそうでした。でもこれからはそういう一途さを踏みつけにするようなものすごく嫌な役もしてみてほしいなあ。それでもジェイクくんが演じてるならきっと好きになれると思うから♪

脇役の俳優陣もジェニファーも好きだった、これまた拾い物の一本。自分とこで上映してたのに、当時からジェイクくん好きだったのに、なんでかその時は観なかった。でもジェイクくんへの愛が高まっている今に観たからこそ、良さがもっとよく分かったのかもしれません。ということはやっぱり今観て正解だったということですね。

| | コメント (13) | トラックバック (6)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »